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人物紹介

 
    Who's JIRO-CHO?
 
山本長五郎こと清水の次郎長次郎長は、文政3年(1820)1月元旦に生まれたということになっているが、真偽のほどはわからない。

生まれてまもなく叔父、山本次郎八のもとに養子にはいり、長五郎と名づけられた。その後、次郎八のところの長ということで、次郎長の通称で呼ばれるようになった。

次郎長の幼少期は、けんかばかりしていた。
20歳の時、旅の僧にに手相を見てもらったところ「お前さんの寿命は、25歳までじゃ」と宣言されてしまった。
そのために彼の人生観は一変し、自身の侠客魂が頭をもたげ、それから次郎長は次第に侠客の徒と交わるようになり、次郎長一家をかまえる。

子分の森の石松が「都田の吉兵衛・梅吉兄弟」に殺された。
次郎長一家は、その仇討ちを計画していた。
だが、文久元年(1861)正月15日、吉兵衛の徒9人が清水に乗り込み、奇襲をかけてきた。
なぜなら、次郎長一家がフグの毒にあたって病床に伏せているという噂を流したからだ。
たしかに毒にはあたったものの、次郎長はじめ幹部衆はすぐに回復していた。
その噂にまんまと策略にはまった吉兵衛は、清水追分の江尻の酒亭駕籠屋で酒を飲んでいるところ彼らを奇襲しついには首をはね、石松の敵を討った。

次郎長の名が広く知られるようになったのは、次郎長26歳の時だった。
甲州の「紬の文吉」と駿州「和田島の太左衛門」が、つまらぬ誤解から、庵原川を挟んで対決したが、この時次郎長は一人で乗り込み、見事に仲裁した。
その度胸の良さは広く世間に知られることとなった。

また、侠客清水の次郎長を更に有名にした事件のが、荒神山の喧嘩である。
伊勢の侠客「神戸の長吉」は「桑名の穴太徳」に縄張りを奪われ、三州「吉良の仁吉」に援を求めていた。
次郎長の子分「大政」ら22人が「仁吉」に加勢したが、何人かが伐たれた。
その知らせを受けた次郎長は、駿・遠・三の博奕打ち480人を動員し鎮圧した。

明治元年(1868)徳川幕府の軍艦『咸臨丸』が清水港内で官軍の攻撃を受け、乗組員が惨殺され、死体を海上に投棄される事件がおきた。
次郎長は官軍の目を盗み、海上から徳川方の屍を拾い集め、手厚く埋葬供養する一方、難を逃れた十数名には、金を与え「榎本武揚」のもとに逃がした。梅蔭寺にある次郎長の銅像(静岡県清水区)
この事件が発覚し駿府藩詰問された次郎長は『死ねば仏だ、仏に官軍も徳川もない。
仏を埋葬することが悪いというなら、この次郎長、どんな罪でも喜んでお受けしましょう』と答えたのだ。
これを知った山岡鉄舟はいたく感服し、以来、鉄舟が亡くなるまで親交が続き、次郎長は自分より17歳年下の鉄舟に心酔し数多くのことを学び、大きな感化を受けた。

山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を受けた次郎はさまざまな杜会活動を行っていく。
有度山の開発、三保の新田開発、巴川の架橋など地元事業のほかに、遠州相良で石油の採掘事業に携わったり、明治8年には鉄舟の勧めで富士の裾野の開墾に自ら鍬を握り、10年にも渡って着手した。
この地には大侠次郎長開墾記念碑が立てられた現在の富士市大渕次郎長町である。裾野の開墾の傍ら、清水では明治9年に外国人講師を招いて若者の英語教育を始めた。これが日本初の英語塾と言われている。

また、蒸気船の必要を力説し、自らも所有て清水港の開港とその発展に尽力した。
そして、明治26年6月12日、74歳で大往生をとげた。

遺骸は、妻お蝶(初代、二、三代)、大政小政ら子分の墓に守られて静かに「梅蔭寺」に眠っている。
幕末から明治に生きた民衆のヒーローであった。

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